カリフォルニア・レーズン協会

カリフォルニア・レーズンができるまで

カリフォルニア・レーズンの歴史

■レーズンとの出会い■

木になったまま自然に乾燥していたぶどうを誰かが見つけた時、レーズンの歴史が始まったと言われています。 8000種類のぶどうのうちレーズンに最適な種類を見つけ出すまでに何百年もの時間を費しました。 ぶどうの栽培がうまく、その発展を担っていたのは、古代のフェニキア人とアルメニア人でした。 すでに紀元前13世紀頃からフェニキア人はその植民地であったマラガとヴァレンシア(スペイン)、コリント(ギリシャ)にぶどう農園を経営していましたし、ほぼ同時期にアルメニア人もペルシャで独自のぶどう作りに励んでいました。 これらの栽培地がレーズン作りに最適な気候に恵まれていたことは当然ですが、さらに最初の大量消費地であった古代ギリシャやローマに近かったことも、 その発展の大きな理由になりました。
マラガとヴァレンシアで主に栽培されたのは、種のある大粒でフルーティで濃厚な味が特徴のマスカットレーズン。 それに対してギリシャのコリントでは種なしで酸味の強いカランツが栽培されたということです。

■アウグスツスとハンニバルに愛されたレーズン■

フェニキア人とアルメニア人の交易によってレーズンはまたたく間に大変な人気商品となり、その価値は上昇するばかり。 古代ローマでは、なんと壺2杯分のレーズンと男の子供の強制労働者一人が交換できました。さらにそれは薬用としても重宝され、古代の医者がレーズンをきのこの中毒の治療から老化防止まで、何にでも効く薬として処方したという記録が残っています。ちなみに「小鳥のレーズン詰め料理」はローマ皇帝アウグスツスの大好物。 アルプス越えの英雄ハンニバルも、その行軍の時に兵士の食料としてレーズンを取り入れていたという話もあります。

■中世=騎士とレーズン■

長期の品質保持が難しく、ギリシャ・ローマ以外のヨーロッパ諸国に出ることがなかったレーズンが一挙に広まったのは11世紀。 十字軍で遠征した騎士たちが、ペルシャや地中海で食べたレーズンを持ち帰ったのです。彼らが帰国した後もレーズンを渇望したおかげで、巨大な需要が生まれました。さいわいその頃には梱包や輸送の技術が向上していたために、レーズンは北ヨーロッパにも出荷することが可能になりました。 14世紀の中頃、イギリスではすでにレーズンとカランツは料理の重要な材料になり、1374年にはその価格が急騰したという記録もあります。その後しばらくして、ぶどう栽培はフランスとドイツにも広がり、16世紀にはイギリスでもカランツの栽培が試みられましたが、残念ながらこれは失敗。気候がレーズンを乾燥させるには寒すぎるという現実は、どうにもならなかったのです。

■新大陸とレーズン■

植民地時代には、ぶどうとレーズンはすでにヨーロッパ料理になくてはならないものになっていました。 従ってぶどう栽培の先進国スペインがメキシコを征服した時、ワインとレーズンがその後を追ったのは当然です。そして、当時のメキシコの北部地域こそが、今のカリフォルニア。その気候の中で、たちまちぶどう栽培は新しい花を咲かせました。 イザベラ女王の庇護を受けたスペインの宣教師たちがその地を訪れ21ヶ所の伝道教会を建てましたが、彼らが作るぶどうはその大半が聖餐用のワインに用いられたのでした。 しかし、メキシコ人への植民地返還後、伝導教会が解体された1834年はぶどう栽培技術の灯はほとんど消えてしまったのでした。それを救った革新的な栽培業者がいなかったなら、世界の主要ぶどう産地としてのカリフォルニアはなかったかもしれません。

■カリフォルニア・レーズン産業の誕生■

植民地がメキシコ人に返還され、伝道教会が解体された後も、スペインの宣教師たちはカリフォルニア農業の発展に大きな影響力を持ちつづけました。ぶどうの栽培業者たちは、宣教師たちの素晴らしい知識を利用し、利益の大きいワイン用ぶどうの栽培を始めました。市場価値の高いマスカットレーズンが、サンディエゴ近郊で栽培されるようになったのは1851年。しかし、まもなくサンディエゴはレーズンのためには最適な土地とはいえないことが判りました。夏の間は豊かな日照には恵まれているものの、広大なぶどう園を維持していくだけの豊富な水がなかったのです。
栽培業者たちは、レーズンのための最適な場所をさらに北に求めました。彼らは世界で最も肥沃な渓谷のひとつ、サン・ホアキン・ヴァレーのフレズノ近郊に、太陽の恵みが豊かな土地を発見したのです。豊かな陽光、長く続く暑い夏、それは栽培のシーズンが長いことを意味し、近くのシェラネバダ山脈の豊富な水のおかげで、この渓谷がカリフォルニアのレーズン栽培の中心地となるには時間がかかりませんでした。
利益率の高い潜在的農地…という噂が広がると、サン・ホアキン・ヴァレーは開発業者や土地の投機家などの人々にとり、大変魅力的な投資対象となりました。1870年代当時1エーカー当たり3~20ドルという地価だったため、広大な農地を取得できました。

■移民が育てたナチュラル・シードレス■

さまざまな人々が、大収穫を求めてサン・ホアキン・ヴァレーに移ってきました。1800年代の後半には、世界で最も経験豊かなぶどう栽培の腕者であるアルメニア人が大挙して移り住みました。今日のカリフォルニア・レーズン栽培業者の多くは、彼らの子孫です。
また、第二次大戦後の1950年代にはインドからも多くの農民が移民し、彼らはたちまち目覚ましい成功をおさめ、今日、インド系の人々はカリフォルニア・レーズン産業の重要な役割を担っています。
今日、サン・ホアキン・ヴァレーで生産されるレーズン用のぶどうのほとんどは、ナチュラルシードレス(種なし)です。マスカットの人気が盛り上がり始めた時に、なぜカリフォルニア・レーズン業界はあえて種なしぶどうに切り換えたのでしょう。それは消費者が、種のあるレーズンを好まないことが明白だったからです。1870年代の初めの頃は、種入りマスカットレーズンの栽培がほとんどで、パンやお菓子を作る時に皮を破って種を取り出すめんどうな作業をいやがらない人だけが、レーズンの買い手でした。ぶどう栽培業者たちに必要だったのは、大規模生産が可能な理想的なレーズン用種なしぶどうだったのです。

■ウィリアム・トンプソンと彼のぶどう■

1876年、ぶどう栽培業者たちが待っていた答えをもたらしたのは、スコットランドからの移民でノーザン・サクラメント・ヴァレーに住んでいたウィリアム・トンプソンという男でした。彼が「レディ・ディカバリー」という名の種なしぶどうをカリフォルニア州のメリーズビル地区の農産物品品評会(フェア)に出品した時が、「革命」の時でした。やがてトンプソン・シードレスとして有名になるこのぶどうこそ、種なしで皮が薄く甘くてとてもおいしかったのです。
ぶどうは、天日干しによりみんなに愛される黒褐色のレーズンになり、機械乾燥後、化学処理を行うとゴールデン・レーズンとなります。どちらの方法でもとてもおいしいレーズンが出来ます。現在、カリフォルニア・レーズンの多くは、ビニフェラ種のナチュラル・シードレスぶどうから作られます。

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