■カリフォルニア・レーズン産業の誕生■ 植民地がメキシコ人に返還され、伝道教会が解体された後も、スペインの宣教師たちはカリフォルニア農業の発展に大きな影響力を持ちつづけました。ぶどうの栽培業者たちは、宣教師たちの素晴らしい知識を利用し、利益の大きいワイン用ぶどうの栽培を始めました。市場価値の高いマスカットレーズンが、サンディエゴ近郊で栽培されるようになったのは1851年。しかし、まもなくサンディエゴはレーズンのためには最適な土地とはいえないことが判りました。夏の間は豊かな日照には恵まれているものの広大なぶどう園を維持していくだけの豊富な水がなかったのです。 栽培業者たちはレーズンのための最適な場所をさらに北に求めました。彼らは世界で最も肥沃な峡谷のひとつ、サン・ホアキン・ヴァレーのフレズノ近郊に、太陽の恵みが豊かな土地を発見したのです。豊かな陽光、長く続く暑い夏、それは栽培のシーズンが長いことを意味し、近くのシェラネバダ山脈の豊富な水のおかげで、この峡谷がカリフォルニアのレーズン栽培の中心地となるには時間がかかりませんでした。 利益率の高い潜在的農地…という噂が広がると、サン・ホアキン・ヴァレーは開発業者や土地の投機家などの人々にとり、大変魅力的な投資対象となりました。1870年代当時1エーカー当たり3〜20ドルという地価だったため、広大な農地を取得できました。
■移民が育てたマスカットレーズン■ さまざまな人々が大収穫を求めてサン・ホアキン・ヴァレーに移ってきました。1800年代の後半には、世界で最も経験豊かなぶどう栽培の腕者であるアルメニア人が大挙して移り住みました。今日のカリフォルニア・レーズン栽培業者の多くは、彼らの子孫です。 また、第二次大戦後の1950年代にはインドからも多くの農民が移民し、彼らはたちまち目覚ましい成功をおさめ、今日、インド系の人々はカリフォルニア・レーズン産業の重要な役割を担っています。 今日、サン・ホアキン・ヴァレーで生産されるレーズン用のぶどう。そのほとんどはトンプソン・シードレス(種なし)です。マスカットの人気が盛り上がり始めた時に、なぜカリフォルニア・レーズン業界はあえて種なしぶどうに切り換えたのでしょう。それは消費者が種のあるレーズンを好まないことが明白だったからです。1870年代の初めの頃は、種入りマスカットレーズンの栽培がほとんどで、パンやお菓子を作る時に皮を破って種を取り出すめんどうな作業をいやがらない人だけが、レーズンの買い手でした。ぶどう栽培業者たちに必要だったのは、大規模生産が可能な理想的なレーズン用種なしぶどうだったのです。
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